2024年1月18日、田村智子氏は志位和夫氏に代わり、女性初の日本共産党中央委員会幹部会委員長に就任しました。
ここでは、田村智子委員長の生い立ち、若い頃から現在までの経歴・学歴・趣味・エピソードを紹介します。
田村智子の若い頃から現在までの経歴・学歴
- 1965年 長野県小諸市の文具卸問屋「山崎屋文具店」の次女として誕生
- 1972年 小諸市立野岸小学校入学
- 1976年 小諸東中学校入学
- 1980年 長野県野沢北高等学校入学
- 1984年 早稲田大学第一文学部入学
- 1984年 日本民主青年同盟加盟
- 1985年 日本共産党入党
- 1988年 日本民主青年同盟就職
- 1993年 結婚
- 1995年 日本共産党国会議員団事務局へ異動。第一子出産
- 1998年 参議院議員選挙に比例区から初出馬
- 1999年 第二子出産
- 2010年 参議院議員選挙比例区で初当選
- 2015年 日本共産党中央委員、同女性委員会副責任者
- 2016年 日本共産党副委員長、常任幹部会委員
- 2016年 参議院議員当選(2期目)
- 2017年 日本共産党青年学生委員会責任者
- 2019年 「桜を見る会」で故安倍元首相を追及
- 2020年 日本共産党政策委員会責任者
- 2022年 参議院議員当選(3期目)
- 2024年 日本共産党中央委員会幹部会委員長
田村智子の小学校~高校時代
1965年田村智子誕生!実家は長野県小諸市荒町の「旧山崎屋文具店」
- 実家は由緒ある文房具用品卸問屋
- 家業の手伝いをする子供だった
1965年7月4日、田村智子委員長は長野県小諸市荒町2-6-7にあった「山崎屋文具店」の次女として誕生しました。
※現在山崎屋文具店は営業しておりません。
私も小学生時代に姉や弟と笑い転げて遊んでいたことを思い出します。
地方都市の“文具店”というと、老夫婦がこじんまりと営んでいるイメージがですが(私の地元はそうでした)、田村智子さんの実家「山崎屋文具店」は老舗の企業でした。
田村智子委員会のご実家で飾っていた7段飾りの雛人形。
小諸商工会議所のホームページを見ると、昭和16年2月~昭和18年4月まで7代目会頭を務められた、山崎隆亮(やまざきたかあき)さんという方がいらっしゃいます。
この方が田村智子さんの祖父なのか、叔父のなのかは分かりませんが、ご先祖様であることは間違いありません。
商工会議所の会頭を務められるということは、地元の名士であり、山崎屋文具店は小諸市の名家であると分かります。
つまり、田村智子さんはお嬢様ということです。
田村智子委員長は、自身のSNSで度々、
「文房具屋の娘として生まれ育ちました。文房具屋の智ちゃんとお見知りおきを」
のように文具屋の娘であることを明かしています。
文房具屋の娘だった私は、お店屋さんが大好き。
店番したり、店のそうじをしたり、電話を受けたり、配達についていったり。
毎日のように店に関わっていた小学生時代を思い出します。
尚現在、旧山﨑屋文具店は営業していません。
2021年にセイケンリノベーション株式会社コモドが物件を購入、自社オフィスと雑貨店「估謨堂」をこの場所に移転させました。
旧山崎屋文具店は築150年の建物で、空き家状態だったそうです。
ビフォー
アフター
しかし、「山崎屋文具店」の看板等は残し雑貨販売店や、イベントスペースとして活用されています。
田村智子は小諸市立野岸小学校卒業
- 小学4年生から合唱を始める
- 本好きの小学生
- 草花が好き(趣味である園芸の原点)
- スケートもできる
田村智子委員長は、実家から目と鼻の先にある長野県小諸市立野岸小学校に通われています。
田村智子委員長のご趣味に、合唱、本の読み聞かせ、園芸があります。
子供の頃から歌が好きだった田村委員長は、小学校4年生から合唱を始めています。
小学校4年生で合唱クラブに入部。朝、昼、放課後と毎日、夏休みもお盆以外は弁当持参で練習でした。その甲斐あってか、小学校5年生のとき、NHK合唱コンクールで長野県代表になり、テレビ放映のためNHK長野放送局での録画撮りも経験しました。
引用 https://www.tamura-jcp.info/oldsite/prf_01.htm
田村先生のSNSやブログ等では合唱に関するコメントが良く出てきます。
本好きに関しても、よくお子さんに絵本を読み聞かせたエピソードやお花のお写真を多く投稿されているのですが、幼少期から本や植物がお好きだったことが分かります。
田村智子委員長は、実家から徒歩5分ほどの距離にある小諸市立小諸図書館に毎週のように行かれていたようです。
小学生のときに作家さんによって本を選ぶ習慣があったというのは、とても凄いですね。
小学生の頃、『ちいさいモモちゃん』を読んで、初めて作家の名前を覚えたのが松谷みよ子さん。以来、初めて「作家で本を選ぶ」ということまで、やった覚えがあります
クラスメイトにも必ず本が好きな子っていたと思いますが、基本的にみんな頭が良かったですよね。
小学生のときにホタルブクロの花を見つけたことがある人はいると思いますが、“私は蛍の雨宿りを想像してた”などロマンティックな表現はふつうできません。
小学生の時、遠足で山道に少し入ると紫色の花をつけたホタルブクロをよく見かけました。蛍が中に入ったら本当にきれいだろうなと、思い浮かべてみたものです。梅雨時に見かけるので、私は蛍の雨宿りを想像していたように思います。
田村智子委員長はのちに早稲田大学第一文学部に入学されてるのですが、スケート経験もあることから文武両道の幼少期であったことが分かります。
小学生時代は、スケート教室があったとのこと。スピードスケートの経験もあります。
小学生時代、一日中、軽井沢スケートリンクで滑り続ける「スケート教室」を年に3回ぐらい経験してきました。
スピードスケートのため、立っているだけでも足が痛いし、足はマメだらけになるし、私はちっとも上手になりませんでした。
田村智子委員長は、ご子息が小学校を卒業された際に自身の過去を振り返られています。
長野県の小学校はクラス替えがなく、6年間同じだったとあります。
長野県の小学校は、クラス替えがなかったので、6年間同じクラス。
担任の先生も2年~6年まで同じ
だから別れがつらかったように思えます。
尚、2022年の調査によると、長野県の小学校の約4割は2年に一度クラス替えをしています。
長野県教育委員会に確認したところ、県内の小学校354校のうち、2年に1度が約40%。3年に1度が約10%。
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20220422/k10013592531000.html
残りはそもそもクラス替えができない1学年1クラスの学校でした
田村智子は小諸市立小諸東中学校卒業
- 同和教育への疑問
田村智子委員長は“すごい”、“強い信念を持った政治家”等、評判の高い方なのですが、小学生のときに体験した同和教育についてのエピソードがそれを物語っています。
同和行政の異常さは、私自身も体験しました。
小学校・中学校に毎年「同和週間」があり、いわゆる「同和地区」の子どもたちが(全員ではないと思いますが)ゼッケンをつけて登校する。
中学校の全校集会で「部落出身です」と壇上から発言し、「勇気ある行動に拍手を」と言われる。中学生の時、私は疑問を抑えきれず、「これまで友達と普通に接してきた。わざわざこんなことをする意味があるのか、自然に接することを妨げるのでは」という主旨の意見を先生に伝えました。
先生は顔色を変えて「そんなことを言ってはいけない」と強く私を指導しました。
親にも連絡がいったようでした。部落解放同盟の暴力的な「告発」「差別撤廃」を恐れてのことだと、後になってわかりました。
「同和行政」に異議を唱えることは、子どもの意見でも許されなかったのです。
長野県は非常に教育において熱心な地域であることから、子供が先生に対して物申せる環境ではなかったと想像できます。
しかし、同和行政という非常にセンシティブな問題に対し、臆せず声を上げたのは中々出来ないと思います。
田村智子委員長の発言にもある通り、先生が顔色を変えて親にまで連絡が来るというのは相当の出来事だったのでしょう。
田村智子は長野県野沢北高等学校
- 合唱部の部活動
- 修学旅行で広島を訪れたことをきっかけに核兵器廃絶に関心を持つ
田村智子委員長が卒業した高校は県立の野沢北高校です。
野沢北高校は偏差値65と長野県内でもトップ10に入る進学校。
地元の国立大学である信州大学への進学だけでなく、その他多くの国公立大、難関私大への進学実績があります。
田村智子委員長とえいば、“合唱”です。
非常に歌がうまくお好きで、国会議員になってもステージで歌われることもあります。
自分が中学・高校のときも(実は小学生のときも)、短い夏休みのほとんどが合唱と水泳で終わっていたように思います。
当時は、親も仕事に夏季休業などないのが当たり前でしたから、なんの矛盾も感じませんでした
田村智子委員長の上記コメントに(実は小学生のときも)とありますが、小学5年生のときNHK全国学校音楽コンクールに長野県代表として出場しています。
田村智子委員長の核兵器廃絶に興味関心を持たれるようになったは、高校2年生のとき修学旅行で広島を訪れたことがきっかけです。
原爆資料館に見学に行かれたときの衝撃とともに、核兵器が存在していることへの強い疑問がわいています。
そうした中で、高校時代の自分と今の自分には“断絶”があるとも発言されています。
田村智子委員長が政治への関心を持つようになるのは、早稲田大学入学後のこと。
現在のご自身と合唱に打ち込んでいた野沢北高校の自分とは、かけ離れていることへの思いがあるのでしょう。
実は、高校時代の自分と今の自分には「断絶」があって、こうして同窓会にわだかまりなく参加できたのも初めてのこと。
いわゆる「いい子」だった私。
学生時代に、学校からみればまるで「反抗期」のように政治的な行動をするように。
それは、実家にも学校にとっても、予想外のことだったでしょう。
のちに、田村智子委員長は大学の学費値上げに対して疑問を持ち、日本民主青年同盟に加盟、卒業後に就職するのですが、その時にご両親に大反対されています。
田村智子委員長にとっても、大学時代に日本民主青年同盟(民青同盟)に出会ったことは人生の転機だったと思われます。
田村智子 美人学生だった早稲田大学第一文学部時代
- 早稲田大学混声合唱団に入団
- 学費値上げをきっかけに日本民主青年同盟へ加盟
- 日本共産党へ入党
1984年田村智子委員長は、長野県野沢北高校を卒業後、早稲田大学第一文学部に入学、上京します。
小中高生と続けている合唱ですが、早稲田大学でも混声合唱団に入部しています。
ただ、入学当時は政治にも勉強にもそれほどやりたいことが無かったようで、一般的な新入生活を送られていました。
しかし、大学1年生の冬に、早稲田大学が財政再建のため毎年学費を上げる“スライド制学費”を導入することを決定します。
私の学生時代、早大文学部は授業料30万円代でした。
このときに毎年上がることに対して田村智子委員長が“おかしいよね”と話したクラスメイトが、日本民主青年同盟のメンバーでした。
結局、大学の思惑通り値上げはされてしまうんですが、友人から日本民主青年同盟への加盟を勧められました。
ところが、当時の田村智子委員長も実は、共産党へのイメージが世間が考えているものと同じだったそうで、加盟を断り続けます。
私が日本共産党と出会うきっかけともなった日本民主青年同盟。
学生時代から20代のすべての期間、私も一員として、平和をはじめ時々の政治の動きに声をあげ行動しました。
私の後輩たち10数人と、来年の選挙にむけての意見交流をたっぷりとすることができました。「じつは民青にさそわれても、なかなか入らなかったんです」と、自分の歩みを話すと、意外そうな驚きの声があがりました。
民青同盟の一員となると、まわりからどうみられるか、親はどう思うか、特別視されたくないという思いと、でも正しいことを認めたいという思いが交差する日々を思い出します。
ですが、世間が思っているイメージとは違うことが分かり加盟したと述べています。
翌年の1985年10月、共産党へ入党しました。田村智子委員長20歳のときです。
学生時代、学費値上げに反対する思いにこたえたのが日本共産党だったことなど、話しました。
秘書時代にも、欧米諸国の大学学費や奨学金制度を調べ、日本が世界一の高学費と世界最低の奨学金だと打ち出す質問づくりを担当しました。
20年前、早大第一文学部の授業料は確か30万円台でした。今は77万円をこえるといいます。驚くべき値上げです。
共産党に反対する団体もおり、当時悔しい思いをしたとも話されています。
早稲田大学の学費値上げに対する反対運動は失敗終わりましたが、学生時代、国鉄の民営化などの問題に対しても声を上げておられました。
こちらは1986年に行われた第14回参議院議員通常選挙の新宿駅西口で行われた選挙演説の模様。
選挙カーに旧姓「山崎智子」の幕が見えます。
日本共産党に入党し、初めて演説は核兵器廃絶がテーマでした。
早稲田大学の学生だったとき、核兵器廃絶をよびかける宣伝行動をしたり、合唱団の仲間といっしょに歌ったり、青年時代の思い出がいっぱいの駅です。
高校の修学旅行で行った広島への思いが強かったことが伺えます。
ちなみに卒論のテーマは芥川龍之介だったそうです。
質問コーナーでは、大学の卒論テーマ、芥川龍之介のことまで聞かれてちょっとあわてましたが、楽しく語り合うひと時でした。
田村智子 日本民青同盟専従職員時代
- 1988年日本民青同盟の専従職員になる(就職)
- 高校生など学生に関する分野で活躍
- PKO法案廃案運動で共に活動した男性と結婚
田村智子委員長は、早稲田大学卒業後、加盟していた日本民青同盟の専従職員として働き始めます。
ただ、ご両親からの猛烈な反対があったそう。
1988年4月、両親からの猛烈な反対を押し切って民青同盟の専従者に
https://www.tamura-jcp.info/oldsite/s_kanagawa_rensai.htm#monogatari04
田村智子委員長のお父様はクリスチャンであったことや、やはり当時も共産党に対する見方は決して好意的なものではなかったと思われます。
ですが、自分の信念を貫きたいとの思いで、日本民青同盟に就職されました。
民青同盟ではどんな仕事をされていたのかというと、主に高校生など学生に関する分野。
中央委員会に専従になった際には、『われら高校生』『民主青年新聞』の編集長をしています。
私は大学卒業後、民青同盟に就職しました。88〜95年まで、ほぼすべての期間、高校生分野に関わっていました。
その中で学んだ貴重なもの、一つは「学ぶ」ということをつきつめて考えたことです。
1992年、田村智子委員長はPKO法案を廃案にする運動をしていました。
PKO法案を廃案に、懸命に呼びかけた1992年の初夏。
「日本共産党の当時のパンフレットにこんな写真があったのよ」と、このコピーをいただきました。あの時のひりつくような気持ちを思い出します。
あきらめない、沈黙しない、主張し、抗い、もがいてでも、這ってでも、私が求める世の中をつくりたい。
こちらは1992年当時の田村智子委員長です。
そして、このときに一緒に国会で夜を明かした同士である男性が、現在の夫田村ひできさんです。
PKO法案では、徹夜国会に何度もつめかけました。このとき、一緒に国会で「夜を明かした」男性と、1993年6月に結婚。
https://www.tamura-jcp.info/oldsite/s_kanagawa_rensai.htm#monogatari02
余談ではありますが、現在田村智子委員長は東京都葛飾区にお住いですが、結婚前は東京都町田市に2年間ほど住んでいたとあります。
現職の緒方靖夫参院議員が住んでおられる町田市、実は私も結婚する前に2年ほど住んでいたことがあります。
今日は、久しぶりにかつて利用していた駅、玉川学園前など町田市内での街頭宣伝でした。
坂と緑の多い町、山道とも言えるような坂を下っていると、このあたりに住んでいた頃を思い出します。
田村智子 議員秘書時代
- 1995年民青を卒業後、日本共産党国会議員団事務局に異動
- 教育基本法、労働、人権問題等に携わる
- 参議院議員選挙比例区候補者として出馬
1995年~2003年までの8年間、田村智子委員長は、日本共産党国会議員団事務局に異動となります。
そして、元衆議院議員の石井郁子氏、元参議院議員の井上美代氏の議員秘書として活動をしています。
以下は田村智子委員長が、元衆議院議員の中島武敏氏に会った際のコメントです。
中島武敏さん(元衆院議員)と久しぶりにお会いして、「あなたが秘書になるとき、いい人がくるよと聞いていたんですよ」とうれしい言葉をかけていただきました。
当時から田村智子委員長は仕事ができる有能な人材であったことが伺えます。
厚生労働委員会の井上美代参議院議員秘書をしていた私は、昼休みに冷たいお茶をもって駆けつけたりもしました。
田村智子委員長の秘書時代の話を調べると、教育基本法に関する問題に多く関わっています。
1995年にはご子息が誕生しており、母親になった田村委員長。
そのため、教育問題に関して、のちに田村智子委員長自身が国会議員として活動するテーマの1つにもなっています。
秘書時代に学んだ、今の教育基本法の議論を思い出します。
私も秘書時代、民主党との共同で30人学級法案を作成・提出の過程を自ら体験してきたことを話しました。
秘書時代には、教育問題の他、労働問題、人権問題にも取り組まれていました。
国会で秘書として関わった仕事は、まさに「人権」に関わることが多々ありました。
学ぶ権利をおかす高すぎる学費、
女性の深夜勤務をめぐる問題、アスベストなどの健康被害、
生存権さえもふみにじる増税と負担増…。
田村智子 国会議員へ立候補!参議院議員へ
- 2005年衆院小選挙区(東京13区足立区)から出馬(38歳)
- 2010年参院比例候補として初当選(45歳)
田村智子委員長は、共産党議員の秘書時代から比例代表候補として国会議員を目指すようになります。
しかし、最初に立候補から6度程落選。
2005年の第44回衆議院議員通常選挙から東京13区(足立区)小選挙区から出馬をしています(38歳)
国会秘書をやめて足立区で小選挙区候補者として活動しました。
自宅から徒歩15分の堀切菖蒲園駅前、雨にもかかわらず「田村智子」ののぼりが何本も立っているのを見て、「地元からおしあげよう」という、有権者の熱い思いが伝わると述べています。
自宅から徒歩15分の堀切菖蒲園駅前、雨にもかかわらず「田村智子」ののぼりが何本も。
「地元からおしあげよう」という、みなさんの熱い思いが伝わります。
そして、7度目の挑戦で参議院議員になりました。
2010年の初当選からは比例区の出馬をしていますが、次の第50回衆院選総選挙では比例東京ブロック候補として、衆議院へ鞍替えすることが予定されています。
故安倍元首相の桜を見る会に関して厳しく追及した際に「桜の人」と呼ばれることもありました。
幼少期から合唱をされていただけあって、論戦でも声がきれいですよね。
聞きやすいです。
女性議員というと蓮舫議員と同じく、プライベートも怖いイメージがあると思います。
しかし、田村智子委員長のかつてのブログを見ると、日常生活では普通の人でいたいと語っています。
お子さんが田村委員長のポスターを指さして“あ、おかっちゃんだ”というと焦るなど。
母親でもあることから子育てに関する問題にも取り組まれています。
質問コーナーでは、「ここだから言える、候補者の苦労や思いは」「国会でやりたいことは」など、私も自分の心の中を見つめなおす機会になりました。
答えたことのなかから。
ここだからいえる思い――日常生活では普通の人でいたい。近所の人と当たり前の会話をかわす、商店街で世間話をする普通の人。それだけに、子どもと出かけて「あ、おかっちゃんだ」とポスターを指差されてあせることも。国会でやりたいこと――みなさんといっしょに、一つでも二つでも法律をつくりたい。「これは私がつくった法律だ」と思えたら、政治が違って見えてくるのでは。子ども医療費無料化の法案をはじめ、くらしに役立つ、国民に歓迎される法律をつくりたいですね。
田村智子の趣味・特技
田村智子委員長の趣味・特技は、歌、映画鑑賞、読書(本の読み聞かせ)、園芸などです。
田村智子委員長といえば歌です。
本人が党のプロフィールに記したところでは、入学してから「毎日が歌、どこでも歌、ところかまわず歌という日々」を送っていたという。
引用 デイリー新潮 2024年1月20日
こちらはご自宅の花壇。可愛いお花がたくさん咲いています。
奥はクレマチス“アンドロメダ”、手前のピンクの小花はナデシコでしょうか。
こちらは、田村智子さんのお二人のお子さんが好きだった絵本。
読み聞かせたエピソードも披露されています。
まとめ
2024年1月18日、田村智子氏は志位和夫氏に代わり、女性初の日本共産党中央委員会幹部会委員長について、経歴を紹介しました。
幼少期から大変賢く、ご本人はいわゆる「いい子」と仰っていますが自身が疑問に思ったこと、間違っていると感じたことは、子供の頃から周囲に圧力に臆せず正そうとしていたことがわかります。
それは早稲田大学に入学後民青に出会ったことで、より具体的になりました。
田村智子委員長は両親の猛烈な反対を押し切ってもでも、民青の専従者になった理由について語っています。
人間の尊厳をふみにじる政治を許せない、政治や世の中を変えることを自らの職業にしたい。大学4年を迎える前に、この思いがぐんぐんと大きくなっていました。
引用 あったかい政治の実現へ
現在、日本共産党のトップに立ち、今後どのようなより良い政治を目指されるのか、田村智子委員長のリーダーシップが期待されています。