麻生派が菅義偉官房長官を総裁候補として支持表明したことで、第99代“菅義偉内閣総理大臣”が現実味を帯びています。
2019年4月1日新元号「令和」を発表したことで“令和おじさん”という愛称で注目を浴びた菅氏ですが、経歴を辿るとまさに“令和の秀吉”と評することができます。
この記事では元菅義偉官房長官が政治家を目指したきっかけと理由について紹介しています。
まずは、政治家を志す以前の菅氏の経歴についてざっとまとめています。
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菅義偉氏の経歴
秋田県イチゴ農家の長男
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集団就職で上京
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大学進学
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建電設備株式会社に入社
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小此木彦三郎氏の秘書
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横浜市会議員
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衆議院議員
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総務副大臣
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総務大臣
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官房長官
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内閣総理大臣?
菅義偉氏は秋田県のイチゴ農家の長男として生まれ、政治とは全く無関係の家に生まれました!と言いたいところなのですが、
実は父親の菅和三郎(すがわさぶろう)氏は秋田県雄勝郡雄勝町(現在湯沢市)の町議会議員をされていました。
兄弟など教師の道を進む中、父親に農業大学校への進学を勧められるも、家業は継ぎたくなかったそうで
高校卒業後に集団就職で上京の道を選びました。
「東京で自分の力を試してみたい!自分のやりたいことをやりたい!」
という思いを抱えていたのですが、板橋区の段ボール工場に就職するも現実の厳しさを知り、視野を広げるために大学で学びたい!と考えるようになります。
築地市場の代車運びなどのアルバイトをしながら受験勉強という生活を2年続け、進学されます。
元小此木事務所秘書の橋本昇氏によれば、菅氏は上京後、町工場の旋盤工になり大学進学後もガードマンや新聞社、食堂のカレーの盛り付けなど学費を稼ぎながら大学を卒業します。
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政治家を目指したきっかけと理由
政治家を志したきっかけは大学卒業後、建電設備株式会社に入社後です。
サラリーマンになり働く中で
「世の中を動かしているのは政治、人生をかけてみたい」
と意識するようになったことがきっかけとされています。
しかし、政治家のつてがないため母校の法政大学の学生課へいき「政治家になるにはどうすればいいのか?」と飛び込んだのは有名な話です。
法政大学OBの第57代衆議院議長中村梅吉秘書を紹介され、同じ派閥の小此木彦三郎衆議院議員の秘書になりました。
小此木氏が神奈川県横浜市を地盤としてたことから、現在も地盤は横浜市なのですが、秘書時代には引退する他の市会議員から地盤を引き継いでほしいとの話があったそうです。
しかし、菅氏は楽な道を選ばず、敢えて有力議員のいる西区から出馬をし当選を果たします。
当時、西区で1日300軒の家を周り選挙運動をしており、靴がボロボロになるまで、選挙までに3万軒のお宅をまわりました。
まさに“どぶ板選挙”によって勝ち抜き政治の政界に入りました。
まとめ
菅義偉氏の座右の銘は「意志あれば道あり」です。
菅氏の経歴を見ればわかりますが、政治とは全く無関係の農家の家柄から官房長官、そして日本のリーダーである総理大臣に上り詰める日もそう遠くないです。
似たような経歴を持っているが豊臣秀吉です。
ご本人は自身を豊臣秀吉を支えた弟の豊臣秀長にたとえられていますが、世間一般から見れば紛れもなく秀吉ではないでしょうか。
武家ではない下層階級から松下之綱に仕えたのち、織田信長に仕え、頭角を現し天下人にまで上り詰めました。
私たちの多くは現代において秀吉のような人生を歩むことなど不可能だと考えている人がほとんどです。
しかし、政治とは全く無縁だった青年が集団就職で上京し、段ボール工場や築地市場などでアルバイトしながら大学、就職、秘書、市議会議員、国会議員、官房長官と1歩ずつ上り詰めてきた姿は、まさに「令和の秀吉」です。
政府主導の官僚の人事権行使など、賛否両論ありますが、座右の銘である「意志あれば道あり」を着実に実行している政治家であることは間違いありません。